あにまりあの徒然日記Tetra(2011・1月)
1月1日(土) 「2011年所信表明」

新年、あけましておめでとうございます。
今年も当HP「あにまりあの雑記帳」をよろしくお願いします。
さて、年頭にやっている今年の所信表明。
その前にお知らせが。
今日から「あにまりあの徒然日記」は「あにまりあの徒然日記T.S」から「あにまりあの徒然日記Tetra」に名前が変わりました。目次の項にカッコで書いていますが4シーズン目に入りました。
それに伴い、スタイルシートを変えたのでスタイルシートを読むブラウザなら今までとは色が少し違ってるはずです。

・・さて、前置きが少しありましたが今年の所信表明。
ここ数年ずっと書いているように思いますが今年は薬とお医者さんを卒業したいと。
去年はこの10年で一番精神状態も肉体状態もよく、山を歩き回ったがその疲労回復をおざなりにして年末に体を壊してしまいました。
疲労回復と山歩きは両立するかという問題はあるのですが(早く寝たら問題ないと思うけど)、その辺をうまく両立させたいと思います。
それともう1点・・と言いたいのですが、これは微妙なのですが・・
パソコンを買い替えようか思案中なのです。
しかし、何度か書いたように思いますがウインドウズ7は見た目がビスタとあまり変わらないうえ、64ビットOSが主流になっていくことが予想され、そうなるとソフトの買い替えなども入ってきて予想以上に予算が膨らむ可能性があるのです。
それなら、別に買い替えしなくてもいいんじゃないか?という疑念に最近苛まれていて停滞中です。
その辺はもう少し考えてからなんですが、一応目標として「パソコン買い替え」も入れましょうか。

・・・なんだか、この所信表明は年々書いてることがショボくなってるような気がしてきたんですが、まぁ、こんなところで・・
1月2日(日) 「ふと思い立ち」

徒然を書き始めて毎年1月2日は必ず御神籤の卦の話題になっていることに気が付いた。
それなら・・と、徒然以前の分は、紙の日記帳にも書いているはずだと思ったらやっぱり書いてあった。
2002年から出た卦を列記したい。

2002年・・凶
2003年・・吉
2004年・・吉凶なし(という卦があるんだね・・)
2005年・・中吉
2006年・・大吉
2007年・・大吉
2008年・・凶
2009年・・小吉
2010年・・大吉
2011年・・小吉

となった。割と万遍なく出てる感じだ。上にも書いてあるが、今年の御神籤は「小吉」だった。
余談だが、弟は去年「大凶」を引き、今年は「凶」を引いた・・
1月3日(月) 「出雲→金毘羅」

出雲大社にバスツアーの予定だったが大雪で道路状況が良くないという事でツアー自体がキャンセルになってしまった。
そこでいくつか代案として提示された中から選んだのが香川県の金毘羅さんだった。
朝、5時半おきだったためかバスの中では寝てばかり。
讃岐うどんは美味しく、金毘羅さんもそれなりに楽しんだ・・
はずなのだが、記憶にあまり残っていない。
なんというか2日までと違い、記憶能力が落ちたんじゃないか、というほどあっさりと過ぎ去った。
折角のツアーなのに、何だかもったいないような・・
1月4日(火) 「恒例行事」

清荒神に初詣に行った。
予想外に人が少なく、拍子抜けだった。
いつもの店で明石焼きを食べて帰ってきた。
しかし、何だかこれも記憶に残らない。
何だかフツーに過ぎすぎて記憶に残らないのだろうか。
それとも、メモリーのストック機能に何か不具合があるのだろうか。
1月5日(水) 「疲労。」

2日まではとても体調も良かったが、3日以降少し疲労モードになっている。
何だろうと思ったら睡眠時間が短くなっていることに気が付いた。
どうも私は睡眠時間が最低でも7時間半以上は必要らしく、それを摂れないようになると、途端にテンションが下がる。
テンションが下がるといっても落ち込みは少なく、「何もしたくない」状態になる。
いかんなぁ、このスパイラル、早く抜け出さないと・・
1月6日(木) 「図書館リニューアル」

地元の図書館がリニューアルした。新しい建物に引っ越して場所も少し変わった。
4日からオープンとのことだったが今日、借りているほんの返却期日でもあることもあって行ってきた。
雰囲気は以前と全然違う。本当に「今風」な図書館だった。
蔵書も少しだが増えていた。
本棚が当然のごとく新しい配置になっていてこれを1から覚えるのは少し骨だと思った・・
でも、楽しめた。
この地元の図書館はもう20年くらい通っているので今でもあの前の雰囲気が懐かしいが、今に慣れていくだろう。
1月7日(金) 「だめだ・・」

年末、30日ころから元旦、2日まで恐ろしく動けて気分も良かった。
しかし、それはひょっとしたら目に見えないハイテンション状態だったのかもしれない。
3日以降、私の精神状態は徐々にではあるが低調になっていき、たぶん今、一番底にある。
正直、こうなったら身の回りのあらゆるものが「地雷」になる可能性があるので何もしないに限るが、実際はそういうわけにもいかない。
そして、さっき「地雷」を踏んだ。
それは何気ない、10年前に放送していたテレビアニメの動画を懐かしさから見ていた時にやってきた。ふと、「この物語の中の人物が現実時間を過ごしたら・・」という思いが頭をよぎった。
このアニメの主人公は中学生になっていたので単純計算でもう大学を出てそろそろ大学院か社会人1年生、もしくは2年生あたりだろう。
その間、私は何をした・・?
という想いに駆られて私の心は真っ暗になった。
これも多分休職していて体を動かさないからこういうことになるんだろう。
幸い、今日、医師から復職許可の診断書を貰った。
しかし診察時間が遅かったので詳細は週明けに詰めることになった。
私はふと思う事がある。それは・・(唐突だけど明日に続く)
1月8日(土) 「不治」

私が最近になって思うようになったこと。それは
        「鬱は不治の病なんじゃないか」
という事だ。
鬱は症状が治まって薬を飲まなくなっても「完治」という表現を使わない。
「寛解」という用語を使う。
それは心の病というものが一般には症状以外に客観的データとして目に見える「数値」や「グラフ」に出ないからだとも思うが、勘ぐれば「完治しない」という事を「寛解」という言葉で誤魔化してるようにも思える。
鬱という病は非常に厄介でそこからの問いかけは今までの自分そのものを問いかけてくる(鬱症状が強い時はそれに対して自分が用意した答えは否定的に解釈されるが)。
例えば「今まで自分は何をしてきたか」とか「世間様の役に立つようなことをしてきたか」とか症状が強まれば自殺願望の高まりに伴い「生きるって何?」という生物にとって最も根源的なことを問いかけてくる。
鬱症状が治まっても自殺願望は多分心の奥底に潜っただけで本当に何気ないことでも姿を現す(これが俗にいうところの「再発」だろうか)。
この病は人間の一番根元のところを問いかけてくる病で一旦それに足を取られるとそこは泥沼のごとく先へ進めば進むほど沈んでしまう。
まぁ、普通の状態なら仕事したり体を動かしたりしてその問いかけを無視することもできるが鬱のさらに厄介なところは気力がうせ、体がだるくなって動かなくなる。
そうしたら必然的に脳活動は活発化しそういう堂々巡りの輪に入り込む。
といっても、この病は実際に体験した人でないとその苦しみは多分、いや絶対に半分ほどしか伝わらないと思う。
痛みを知らない人に言葉で痛みを伝えてもわからないのと同じく、痛みを体験して初めてそれが痛みであるとわかるようなもの。
私と鬱との付き合いも11年目に入った。もう治らない、一生のお付き合いと思い半ば諦め、半ば絶望している。
最後にこの文章を書いてるのは・・
1月9日(日) 「痩せ気味」

ふと、今の体重は身長に対する理想の体重値とどれくらい離れてるのかを知りたくなってしらべた。
そうしたらBMI値が19でやせ気味と言われた。
大学の時、確か体脂肪計で測ったら体脂肪率が14辺りだった記憶があるがBMIは「肥満度」なのね・・・
それにしてもここ数年は痩せてるとは言われなかったので少しショックだった。
1月10日(月) 「数字選択式宝くじ。」

これ、いつ考えても本当によくできていると思う。
何がって当たりの数と選ぶ数字の数。
多すぎず、少なすぎず、をまさに地で行っている。
ロト6の場合、何をもって43個という数字に落ち着いたのか。
多分これに1個数字を加えるか減らすかしたら確率がまた大分変るんだろう。
簡単そうで、実は難しい。
不思議な宝くじだ。
1月11日(火) 「右目」

正月ころから右目が異様に疲れるようになった。
すぐにしょぼしょぼになる。
ちなみに左目はそんなことはない。
そうしてふと気が付いた。
「しもやけ」も右手に多発している。これも治るとすぐに別の個所に発生・・というパターンで大豊作だ。
左手のしもやけは1個だけ。
・・?右半分に症状が集中するのは少し気持ちが悪い。
1月12日(水) 「超絶」

スランプです。文章が書けません。
他の登場人物に代筆を・・とも考えましたが、振られてしまいました。
ここも書き始めて7年ちょっとだけどこれは長い間書いていない時、再始動させるときの感覚に似ている。
以前は湯水のように文章が出てきてタイトルもどんどん浮かんでいたが最近は本当に枯渇気味。
そう考えたら本当にこの文章を書くアイデアというか「書きたい事を書ける表現力」って私の状態を表してるように思えるね・・
1月13日(木) 「もうすぐ1/24」

上のタイトルだが「1月24日」という意味ではなく、「24分の1」という意味だ。
それでは何が24分の1かというと、もうすぐ今月が始まって半月が過ぎる。
すなわち、「2011年が始まって24分の1が過ぎる」という事が言いたい。
1年って長いように思うけどこうやって短いスパンで区切ったら案外短いものだね。
この区切り法は別に年月に限らず仕事時間とかにも当てはめたら割と応用範囲は広いんじゃないかと思うけど、あくまで気休めなので、念のため。
1月14日(金) 「融解したしもやけ」

非常に奇妙なことが一晩のうちに起こった。
右手の指にたくさんできてパンパンに張っていたしもやけが殆ど消えたのだ。
そう、まさに「融けてほぐれた」のだ。
考えられることが2つある。
昨夜2時頃、どういうわけか最近にしては大量の寝汗をかいた。
もちろんその時手袋はしていた。
部屋が暑いとは思わなかったがもし布団内の温度が上がって汗をかいたとしたら手袋をしていた指も温度が上がったことになる。
もう1つは一昨日くらいから飲み始めた血行を良くするというビタミンEのサプリメントだ。
2つが一緒になって一気にしもやけがなくなったのか、よく分からない。
ただ言えることはしもやけが殆ど(完全にではない)ほぐれて全く問題ないレベルになった。
という事だ。しかも一晩で。
あまりに不思議で首をかしげてばかりだった。
1月15日(土) 「昇格?変更?」

今日付けで私の肩書が変わりました。
今まで私は「あにまりあの雑記帳」の「ホームページアシスタント兼編集者」という肩書だったんですが今回あにまりあさんの「秘書」になりました。
でも、今までと殆ど何も変わりません。
秘書という肩書に「昇格」したのか「肩書き変更」という単なるレッテルの付け替えなのか、正直自分でも判断しかねています・・
1月16日(日) 「異様に寒い」

昨夜から異様に冷え込んでいる。
昨夜、大阪の市内でも−2℃まで下がったという。
アメダスで見ても今日の最高気温は4.5℃という事だった。
そして夜、8時の段階でもう0.6℃まで温度が下がっている。
こんな強烈な冷え込みは久々だ。
寒いのもほどほどがいいな、と、わがままなことを言ってみたくもなる一日だった。
1月17日(月) 「ネット断線」

今朝、ネットを繋ごうとしたら繋がらなかった。
曰く、「リモートコンピュータが応答しなかった」という事。
昼になっても改善しなかったのでサポートに電話したら私の地域の辺りで障害が起こっていてネット接続ができないという事だった。
光にしてもうすぐ4年になるがこんなことは初めて。
凄く珍しいところを持ってきた。
ちなみに障害の方は昼過ぎに直ったとのこと。
いやいや、こちら側の機器が壊れたのかと思ってびっくりしました。
1月18日(火) 「ずれ」

今日は変な一日だった。
どうしても今日が火曜日だという認識が得られなかったのだ。
朝は月曜日だと思っていた。
夕方からは水曜日だと思った。
といっても別段不具合は生じなかったが、なぜこんな現象が起こったのか不思議だ。
1月19日(水) 「ヘヴンズ・ドア」

この言葉もかなり使い古された感があるが私は以前、この扉を見つけた。
以前、この徒然でルナという人物がそれを示唆する文章を書いているが(2010年9月にね)ラナ嬢には私がそのものを伝えたので彼女のブログで触れていたことがあった。
話は今から4か月ほど前にさかのぼる。
9月。私はふとしたことから心の中にこの「ヘヴンズ・ドア」を見つけた。
それは普通の空間に偽装されたドアで見かけも全く分からなかった。
ただ私はどうもそれを無意識に開けていたらしいのだ。
それから何が起こったか。
私の「いる」世界の風景が変わった。
ここで言う「世界」とは現実世界の肉体がいる世界ではない。精神のいる世界だ。
そこは一面花畑。
ちょうちょが舞い踊り、頬を撫でる風はとても心地いい。
凄く薄いが何か甘い匂いがする、そんな世界。
そこは「死の影」も入り込んで来ない。
・・・別にラリってるわけではないですよ。
ただ、過ぎゆくとても穏やかな日々。それがこんなに心地良いとは・・
1月20日(木) 「力」

力というものは不思議なものだ。無くては生きていけないがあまり持ちすぎると力が自分そのものと巧妙に入れ替わってしまう。
そうしてその力がなくなって再び等身大の自己を取り戻すような気がする。
でも、力を持っているうちはそうなっていることに気が付かない。
私に言わせると「力を持っている」その人が「力に使われている」ように見えるのは穿った見方だろうか?
1月21日(金) 「ふふ・・」

私の仕掛け通り、「ルナ」という人格は表に出てくるようになった。
そもそも、一つの人格を二つに分けてること自体に無理があるのよ。
だから私は少し強引だけど「ルナ」という人格を(私の)意図的に表に出るようにして二つの人格の統合をやってみることにしたの。
もちろん、危険は承知の上よ。
元々分離して安定していたものを混合するんだから。
でも、これは必要だと思うのね。
しかしその反面、私は思う。
私はお節介以上の事をしてるんじゃないか・・と。
1月22日(土) 「善意の落とし穴」

善意は素晴らしいことだと思う。
「求めている」人にその「求めているもの」を与える。
しかし、それには落とし穴がある。
「私が良いと思う、だから誰かに薦めよう」。
これがその出発点だ。
しかし与えられる当人にとっては「良いもの」と与える側が思ってる者はあまり良くないかもしれない。
そうすると与えたほうは思う「薦めたのになぜそれを受け入れないんだろう」。
そこから軋轢が生じる。
厄介なのはそれが「悪意」ではなく「善意」だという事。
だから余計に思うとおりにそれを受け入れてくれない相手にいら立ち、それが怒りに変わるんだろう。
「人はそれぞれに違う事」を受け入れるのって言葉では簡単だけど実際はとても難しい、と私は思う。
1月23日(日) 「「花園」への扉」

あにまりあが「花園」と比喩した空間に閉じ籠って以来、私がここを記述しているのだが、あにまりあは何故「花園」と名付けた閉鎖的空間に籠ったのか実は私にもよく分からないのだ。
ただ、言えることは落ち込みとかそういうものではないという事。
感じるところではあにまりあはとても穏やかな時間を(そもそもあの空間に時間という概念があるのかも怪しいとは思うけど)過ごしてるようなのでその辺は特に問題はないのだが、あにまりあは「精神が眠ってる」ような状態に入ったんじゃないかとも思える。
そもそも、あにまりあが以前ツイッターで言っていたが人間も動物、すなわち「動く物」。という事は、動いていないという事は、どういう事なんだろう。
私はそれを問いかけたがその「花園」への扉は非常に巧妙に偽装されているようで私にも今現在直接の扉を見つけられていない。
1月24日(月) 「手帳にも」

私は気が付いたことがある。
それはあにまりあがあれ程好きだった手帳に物事を一切書き込まなくなったことだ。
去年の秋に手帳自体を購入してるので無いわけではない。
ただ「何も書かない」のだ。
書き込むべきことはある。
なのにそれを紙にメモ書きした後、記録に残さない。
あにまりあが私の前から姿を消して幾日か経った。
あにまりあがいるという「花園への扉」はまだ発見できていない。
1月25日(火) 「人間のいない世界」

あにまりあは以前「花園」の話をしていたことがあった。
そこはとても暖かく、花が咲き乱れて鳥がさえずり、日射も強すぎず弱すぎずの世界だと言っていた。
私はその時それを聞き流していたがよく考えたらその「花園」にはあって当たり前のものがないことに気が付いた。
それはあにまりあ以外の「人間」の存在だ。
そこであにまりあは日がな一日(そもそもそこには時間すらないというけど)のほほんと過ごしていたと以前聞いたことがあった。
確かにあにまりあが人見知りをするのは私にも一端の責がある。
でも、私が見ている限り、あにまりあの近況でそれほどひどい精神的ショックを受けるような出来事が全くない。
それなのにあにまりあは「花園への扉」を開き、そこに籠った。
私にはあにまりあの真意がよく分からなくなっている。
そんな人間のいない世界、退屈しないのですか?
1月26日(水) 「正直なところを言うと」

私が表に出っぱなしというのは結構私のエネルギーを消耗している。
表に出るのに慣れていないという事もあるんだろうけど、それでも何だか疲れる。
やっぱりあにまりあが表に出てその裏側でひそやかに暮らすのが私には合ってるみたい。
でも、あにまりあが雲隠れした今、肉体の管理をできるのは私しかいないので私が管理者権限を使って普段の生活に支障が起きないような最低限の出来事をこなしてるのだが、何だかこういう「事務仕事」には慣れていない。
「表の世界」って結構煩雑なんだなと思う。
1月27日(木) 「医学的見地」

あにまりあが「花園への扉」を開き、その向こうの世界に籠ってしまうことによって生じる間隔の変化は医学用語では「離人症状」というらしい。
この症状自体は健康な人でも起きるらしいので別に問題はないと思う。
ただ、問題なのはあにまりあがどこかに作った「花園」で過ごしてるこの数日、私自身も影響が出ていて時間の感覚が乏しくなり、感情に起伏がなくなっている。
裏を返したらそれはあにまりあが「花園」で骨休めできているという証拠と言えなくもないが(満足しているから感情に起伏がなくなるという意味でね)実際生活を担当している私からしたらさっさと出てきてもらいたい。
でも、こっちの世界で数日の時間を過ごし、日常の雑務をするうちに私に疑念が生じた。
「私って一体何だろう?」
1月28日(金) 「私が「表の世界」に出て思った事」

私は、今まで「表の世界の人」と喋ったことがなかった。
しかし、あにまりあが「花園」に引きこもってしまい、私が管理代行として日頃あにまりあが接している人たちと会話をしてきた。
私が思ってきた「外界」の人間とはずいぶん違っていた。
出会った人たちは私が思っていたよりもずっと「普通」だった。
私は長い間「外界」の人間は恐ろしい存在だと思っていたがその認識を少し改めるべきだと思った。
1月29日(土) 「欲望=生きる力」

私は以前から思っていたが「欲望」って普通はあまり良い目で見られないが、これを失くしたら本当に抜け殻になってしまうんじゃないかと思うようになった。
「〜したい」という想い、それこそ人間を動かす根源的な力なんだと思うようになった。
私はずっと前、あにまりあに欲望=悪論を説いていたがそうしたらあにまりあは本当に欲望というものを失くしたことがあった。
しかし、そうなったあにまりあは本当に「生き人形」でしかなく、私は過ちに気が付いたのだ。
欲望は塩や水と同じようなんだと思う。
生きていくのに必須だけど摂りすぎたら毒になって害になってしまう。
だから適当なところで手綱を握っておかなくてはならないのだけどね。
1月30日(日) 「今日も寒かった。」

先々週、とても寒い日曜だったのだが今日もそれに近い寒さだった。
そう思い普段より厚着をして近くの図書館に出掛けた。
完全武装のおかげでそれほど寒さは感じなかったが、顔に当たる風は極寒だった。
週間天気予報では2月に入ると寒さが緩むという。
去年の夏は暑すぎ、冬は寒い。ラニーニャというが、変な気候だ。
1月31日(月) 「私の居場所」

私の居場所はどうやら薄暗い夜の世界の側のようだ。
あにまりあが生活している世界は私にとっては明るすぎ、煩雑すぎて疲れるだけだった。
しかし、得るものもあった。
あにまりあに関係する人たちと実際に会って話したことだ。
私は今まで表の世界の人間と直に話したことがなかった。
しかし、少しの間だが表の世界で人間の実物と話すことで人間という生き物は私が思ってるほど信用できない生き物ではないのではないかと思うようになった。
といっても、あにまりあは結構お人よしなところがあって人の言う事は割と何でも信じるほうなので私が「タガ」になってその辺は監視していかなくてはならないと思うのだがね。

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